Masuk「ジェニファー! ジェニファー! 一体どこにいるの!?」
ダークブロンドの髪を結い上げた女が、火の着いたように泣き叫ぶ赤子をあやしている。
「オギャアッ!! オギャアッ!!」
「あぁ! 全く、お願いだから泣き止んで頂戴! ジェニファー! 何してるのよ!早く来なさい!」
「はい! 叔母様!」
そこへエプロン姿の少女がほうきを手に、部屋の中へ駆け足でやってきた。
「全く、呼ばれたらすぐに来なさい! 本当に愚図なんだから! さぁ、早くニックの子守をして頂戴!」
女性は1歳にも満たない赤子をジェニファーに押し付けてきた。すると、すぐに赤子は泣き止む。
「叔母様! 私、今屋敷の掃除をしていたのですけよ? 子守なんて無理です!」
赤子のニックを抱きかかえながら、ジェニファーは訴えた。
「何言ってるの? おんぶ紐があるでしょう? 両手が空いていれば掃除くらい出来るじゃないの! 私は授乳で疲れているのよ。あなたは子供たちの中で一番お姉さんなのだから、子守位できるでしょう? 大体、私達がいるから貴女はここで暮らしていけるのよ? それを忘れたの!?」
ジェニファーの叔母、アンはベッドサイドに置かれたおんぶ紐を指さした。
「……いえ。忘れていません。分かりました、叔母様」
ジェニファーはため息をつくと、ニックをおんぶ紐で背負った。
「それじゃ、掃除の続きをしてきなさい。私はこれから少し仮眠を取るわ。15時になったら子供たちにオヤツをあげるのよ」
「はい、叔母様」
アンはカウチソファに横になると、すぐに寝息を立て始めた。
「……おやすみなさい、叔母様」
傍らにあったブランケットをそっと掛けてあげると、ジェニファーはほうきを持って掃除へ向かった――
****
赤子を押し付けられ、まるで使用人のように働かされているジェニファー。 現在10歳で、正式なブルック家の男爵令嬢である。ジェニファーは不運な娘だった。
彼女の母親はジェニファーを出産してすぐに亡くなってしまった為、父親によって育てられた。 しかし、その父親も彼女が8歳のときに病気で亡くなってしまった。 そこへジェニファーの後見人を名乗る、母親の妹が家族を連れてブルック家に上がり込んできたのだ。そこから、ジェニファーの苦労が始まった。
叔母と叔父はとんでもない浪費家だった。
ブルック家は叔母家族によって散在され、あっという間に財産を失ってしまう。 使用人達に給料すら払えなくなり、半数以上が解雇されてしまった。そこで叔母家族は働き手が減ったため、まだ子供だったジェニファーを働かせ始めたのだ。
やがてジェニファーが一通りの家事がこなせるようになったのを見計らい、叔父は残っていた使用人を全員解雇した。そして、ついにジェニファーはたった1人で屋敷の仕事をさせられる羽目になってしまったのだった――
**** 「ニック、お利口にしていてね」ジェニファーはおぶっているニックに話しかけながら、部屋の掃除をしていた。
そのとき。
ボーン
ボーン ボーン屋敷の柱時計が午後3時を告げる鐘が鳴り響く。
「あ! いけない! サーシャとダンにオヤツをあげなくちゃ!」
ジェニファーは、急いで厨房へ向かった――
「お姉ちゃん! オヤツ遅いじゃないか!」 「お腹減ったよ〜」食堂へお茶とオヤツを持っていくと、すでにダンとサーシャが椅子に座って待っていた。
ダンは8歳の少年、サーシャは6歳の少女で叔母の子供たちだった。「ごめんね、お掃除していたらオヤツの時間になっていたの忘れちゃってたの」
2人の前に紅茶とクッキーを置いてあげると、ジェニファーも椅子に座った。
これからニックにミルクをあげなければならないからだ。ジェニファーが哺乳瓶でニックにミルクをあげていると、オヤツを食べていたダンが話しかけてきた。
「お姉ちゃんはオヤツ、食べないのか?」
「う、うん。私はいいのよ」
もう買い置きしていたクッキーは無くなりかけていた。自分の分まで食べたら、2人のオヤツが無くなってしまう。
「ふ〜ん。だったら、僕の1枚やるよ」
「なら私もあげる」
ダンとサーシャが1枚ずつクッキーを空の皿に乗せてきた。
「いいの? 2人のオヤツを分けてもらっても」
「うん、いいよ」
「うん」「ありがとう、ダン。サーシャ」
そう。
辛い生活の中でも、ジェニファーに取って唯一救いだったのは……子供たちに慕われていることだった。だからジェニファーは家事に追われる辛い日々を耐えてこられたのだ。
やがて、ジェニファーの運命を変える出来事が起こることになる――
「冗談じゃありません! ジョナサンは私の大切な息子です。何故伯爵に託さなければならないのですか!?」強く反発するニコラスに伯爵は不敵な笑みを浮かべる。「だが、ジョナサンは私にとっても大切な孫だ。それに先程君は言っただろう? 子供は諦めようと思っていたとな」「それはジェニーの身体が出産に耐えられるか心配だったからです! でも彼女は子供を産んだ。祖父だからと言って、ジョナサンを渡せるはずありません!」すると伯爵が声を荒げた。「だが君はまだ次の子供に恵まれるチャンスだってあるだろう!? 何しろ私はあれ程再婚に反対したのに、強引にあの娘と結婚をしたではないか! 今度はジェニーの代わりにあの娘に自分の子供を産ませれば良いだろう!? だからジョナサンは貰っていく! 今日はその為に、わざわざここまで足を運んで来たのだ!」その時――「待ってください!!」突然扉が開かれ、ジェニファーが部屋に現れた。「! ま、まさか……ジェニーッ!? いや、違うな……お前はジェニファーなのだろう?」背筋が凍りそうな冷たい目で伯爵は睨みつけた。その視線に足がすくみそうになるも、ジェニファーは挨拶した。「はい、ジェニファーです。……お久しぶりです、フォルクマン伯爵」「ジェニファーッ! 何故ここへ来たんだ!? 部屋で待っているように言っただろう?」立ち上がるニコラスに、ジェニファーは謝罪の言葉を述べる。「……申し訳ありません。どうしてもじっとしていられなくて、伺いました。そうしたら、伯爵がジョナサンを引き取ると言う話が聞こえたのでつい……」「全く、何処までも図々しい娘だ。ジェニーが亡くなった後釜に上がり込んで妻の座に収まるとは。それだけでは飽き足らず、今度は盗み聞きか? 外見はジェニーにそっくりなくせに、やっていることはまるで低俗だ!」伯爵はジェニファーに棘のある言葉をぶつけてきた。「そ、それ……は……」責められ、青ざめるジェニファー。これ以上ニコラスは黙って見ていることが出来なかった。「伯爵! いい加減にして下さい! 何故そこまで彼女を憎むのです!? 彼女はあなたのたった1人きりの姪ではありませんか! それに誤解しています! 伯爵はジェニーが喘息で苦しんでいたのを見捨てて遊びに言っていたと仰っていましたが、それは違います! ジェニー自らがジェニファーに町に行って、
それぞれが緊迫した状況に置かれている頃――ジェニファーは自分の膝の上で遊び疲れて眠ってしまったジョナサンを膝の上に抱いて頭を撫でていた。(ニコラスは大丈夫かしら? それにフォルクマン伯爵は……)自分のせいで2人は仲たがいしてしまったのだ。そのことにジェニファーは責任を感じていた。「ジョナサン、ベッドで寝ましょうね」ジョナサンを抱き上げ、ベビーベッドに寝かせたところでポリーがお茶を持って現れた。「ジェニファー様、紅茶をお持ちしました」「ありがとう」椅子に座るとテーブルの上にカップが置かれる。「どうぞ」「いただくわね」ポリーが淹れてくれたのはアップルティーだった。リンゴの香りとほんのり甘さのあるお茶は緊張を和らげてくれる。「お味はどうですか?」「すごく美味しいわ、ありがとう。……ところでポリー。ニコラスは今どんな感じか分かる?」「はい。人づてに聞いたのですが、御主人様は今フォルクマン伯爵と2人だけでお話をしているそうです」「え? そうなの? それではニコラスの義理の母と弟はどうしているの?」「お2人の話が終わるまでは別の部屋で待たれているようです。シドさんが付いています」「シドが……」(ニコラスもシドも緊迫した状況に置かれている……私1人、こんなことをしていては駄目だわ……)カップを持つジェニファーの手が震える。「ジェニファー様? どうなさったのですか?」「ポリー」ジェニファーは顔を上げて、ポリーを見つめた。「な、何でしょう?」「ニコラスとフォルクマン伯爵は今も応接室にいるの?」「はい、そう聞いておりますが……」「それなら、ジョナサンをお願い」立ち上がるジェニファー。「え? 何処へ行かれるのですか?」「ニコラスの所へ行ってくるわ」「ええっ!? 何故ですか?」「このままここにいても、不安なだけなの。様子を見に行きたいのよ」「ですが……!」「中へ迄は入らないわ。扉の隙間からほんの少し見るだけだから。お願い、行かせて頂戴」(滅多に無理なことを言わないジェニファー様なのに……)「分かりました……。ジョナサン様は私が見ているので、どうぞ行かれて下さい」「ありがとう、ポリー」礼を述べると、ジェニファーは足早に応接室へ向かった――****――その頃。ニコラスと伯爵は向かい合わせで座り、話をしていた。
「どうも、お待たせいたしました」ニコラスは3人が待ち受ける応接室にやってきた。「ニコラス!」「いつまで待たせるのよ!」「義兄さん、お久しぶりですね」伯爵とイボンヌは苛立ったように険しい声をあげるも、義弟のパトリックだけは笑顔を向けている。ニコラスは早速伯爵に話しかけた。「伯爵、お久しぶりです」「ああ。……1年ぶりだな」ぶっきらぼうに挨拶する伯爵は、ジェニーが生きていた頃とはまるで別人だった。頬は痩せこけ、落ちくぼんだ目は生気を失っている。(フォルクマン伯爵に会うのはジェニーの葬儀以来だが……それにしても、何て変わりようだ……以前の面影がまるで残っていない)噂によれば、フォルクマン伯爵は最愛の一人娘を失ってから自暴自棄になってしまったと聞いていた。「それにしても驚きましたよ。何故伯爵がこの2人と一緒に居るのです?」「さぁな、そんなのは知らんな。たまたま『ボニート』の駅に降り立ったら、鉢合わせしただけだ」「伯爵、そんな話を私が信じるとでも思っているのですか?」すると赤毛の髪を逆立てるかのように、イボンヌが声を張り上げた。「ちょっとニコラス! 私たちを無視して勝手に話を進めるとはどういうことなの!? これでも私たちは家族でしょう!? 」 「落ち着いて下さい、母上。兄上の言うことも尤もです。僕たちは招かれざる客なのですから。そうですよね? 兄上」イボンヌにそっくりな赤毛のパトリックは人懐こい笑みを浮かべた。「……」しかしニコラスは返事をせず、不審な目をパトリックに向ける。パトリックが狡猾な人物であることは、ニコラスは良く知っていた。笑顔の下には恐ろしい野心が備わっている、油断ならない人物なのだ。まだ本心をさらけ出すイボンヌの方が相手にしやすい。「ニコラス! 返事位したらどうなの!?」イボンヌは増々目を吊り上げた。「私は今、伯爵と話をしているのです。申し訳ありませんが、お2人は一旦席を外して頂けませんか?」「な、何ですって……? よくも私にそんな口を……!」すると、伯爵が口を開いた。「テイラー侯爵の言う通りです。私も彼と2人きりで話がしたいので、お2人は一旦退席を願います」「フォルクマン伯爵! 貴方と言う人は……!」イボンヌが激高するとパトリックが止めに入った。「落ち着いて下さい。母上」「パトリック! 何故止める
――翌日朝食を終えた3人はジョナサンの部屋で一緒に過ごしていた。ジェニファーがジョナサンとボール遊びをしている傍らで仕事をするニコラス。ジェニファーは笑顔でジョナサンに接していたが、その心中は穏やかではいられなかたった。(今日、フォルクマン伯爵が来る……私は一体どうしたらいいのかしら)出来る事なら会いたくなかった。けれど相手はジェニーの父親で自分の叔父。しかも伯爵なのだ。仮に会いたと言われれば、逆らうことなど出来ないだろう。思い悩んでいたその時。「ニコラス様っ!」突然扉が開かれ、慌てた様子のシドが部屋に現れた。「どうした、シド。ノックも無しに」ニコラスが眉を顰める。「申し訳ございません。急ぎの用だったので……」「ひょっとしてフォルクマン伯爵が来たのか?」ニコラスは立ち上がり、ジェニファーの肩がピクリと動く。「ええ、ですがそれだけではありません……イボンヌ様とパトリック様も一緒なのです!」「何だって!? それで3人は何処にいる!?」「はい、応接室にいらっしゃいます。執事長が対応していますが、皆さんニコラス様をお待ちになっております」「分かった……すぐに行こう。シド、お前もついてきてくれ」「はい、承知いたしました」ジェニファーは2人の会話を呆然と聞いていた。するとニコラスが視線を向けてきた。「ジェニファー」「はい」不意に名前を呼ばれて姿勢を正した。「大丈夫だ。伯爵が何と言おうとジェニファーには会わせない。……会いたくは無いだろう?」「ニコラス様……」静かな声に、優しい眼差しを向けられて戸惑うジェニファー。そして2人が見つめ合う姿に複雑な思いを抱きながら、シドは声をかけた。「ニコラス様
その後もニコラスはジェニファー達と一緒に過ごす時間を積極的にとるようにしていた。仕事の合間にジョナサンの元を訪ねては絵本の読み聞かせをしたり、ボール投げで遊んであげたりと積極的に子育てに関わるようにしていた。今もニコラスはジョナサンに積み木で遊ばせ、その傍らではジェニファーが2人の様子を見守っている。ジェニファーはニコラスとジョナサンの間に徐々に信頼関係が出来上がってきているのを感じとっていた。それは同時に、苦労ばかりしてきた自分の人生で一番穏やかな気持ちで過ごせる時間でもあったのだ。(この幸せな時がいつまでも続けばいいのに……)けれど近い将来、ここを出て行かなければならない。その事を考えるだけで、胸が締め付けられそうになる。思わず目頭が熱くなりかけた時……。「ジェニファー。どうかしたのか?」不意にニコラスに声をかけられ、我に返った。「マァマ?」ジョナサンも不思議そうに首を傾げ、ジェニファーを見つめている。「わ、私が何か?」「いや……何故涙ぐんでいるのかと思って」「あ、こ、これはちょっと目にゴミが入っただけです」ゴシゴシ目をこすると、ジョナサンが近づいてきてジェニファーの顔を覗き込んできた。「マァマ? イタイ?」小さな手でジェニファーの頬に触れてくる。「ジョナサン……」ジェニファーは自分を心配するジョナサンが愛しくて、抱き寄せた。「ジョナサン、あなたはとても優しい子ね。大好きよ」「マァマ、スキ」抱きあう2人をニコラスはじっと見つめている。(本当に2人は親子のようだ。出来ればずっとここに残って貰いたいが……それは俺の身勝手な考えだ。彼女には彼女の生きる道があるのだから……)そのとき。「ニコラス様、少々よろしいでしょうか」開いていた扉から執事長が現れた。「どうかしたのか?」「はい。フォルクマン伯爵から電話が入っております」「!」その言葉にジェニファーの肩がピクリと動く。「分かった、すぐに行く」ニコラスは立ち上がると、ジェニファーに声をかけた。「ジェニファー。すまないが、ジョナサンを頼む」「はい、分かりました」頷くジェニファーの声が震えている。「大丈夫か?」「はい、大丈夫です。いってらっしゃいませ」「ああ」ニコラスは頷くと、執事長と一緒に部屋を出て行った。「フォルクマン伯爵から電話……」
ダイニングルームではジェニファーがジョナサンに食事をさせていた。そして2人の向かい側にはニコラスが座って食事をしている。「はい、ジョナサン。あ~んして?」ミルク味のパン粥をスプーンですくってジョナサンの口元に運ぶジェニファー。「ア~ン」ジョナサンはパン粥を口にすると、嬉しそうに笑顔になる。「フフ。美味しい?」ジェニファーの問いかけにコクンと頷くジョナサン。「次はどれがいいかしら」「コレ」「そう、ニンジンがいいのね? このニンジンは甘くて美味しいのよ。はい、あ~ん」「ア~ン」ジョナサンはニンジンを飲み込むと、バタバタと足を振った。「ンマッ、ンマッ!」「そんなに美味しかったのね? はい、ア~ンして? これも美味しいでしょう?」「……」ジェニファーがジョナサンに料理を食べさせている様子を、ニコラスは呆然と見つめていた。(まさか、一口食べさせるたびに声をかけていたなんて……)自分の食事には一切手を付けず、ジョナサンに笑顔で食事させている姿にニコラスは心打たれた。ジェニファーが、どれだけ愛情深くジョナサンに接していたのかを改めて知ることになったのだ。(もっと早く、この姿を見ていれば……偏見の目でジェニファーを見ることも無かったのに……。恐らくジェニーだったら、こんな風に子育ては出来なかっただろう)病弱な伯爵令嬢として大切に育てられてきたジェニーは、あどけない女性だった。それ故大人になりきれない一面があり、何をするにも常に自分が最優先だったのだ。自分よりも子供を優先して食事を与える姿は想像が出来なかった。(だからこそ、ジェニファーに我が子を託したのだろう……)ジェニファーの食事は全くの手つかず状態だ。そこでニコラスは声をかけた。「ジェニファー」「はい、何でしょう?」「食事、まだだろう? 変わるよ」「え? ですが……」「俺はもう食べ終えているんだ。それに、我が子に食べさせるのは親の役目だしな」ニコラスは立ち上がると、ジョナサンの隣の席に座った。「すみません……残りは後半分ほどなのですが……お願い出来ますか?」申し訳ない気持ちでジェニファーはジョナサンの食事が乘ったトレーをニコラスに託す。「ああ、任せてくれ。よし、それじゃジョナサン。今度はパパが食べさせてあげよう。ほら、あ~んしてごらん」「ア~ン」ジョナサン